1939年のドイツ空軍戦闘機
1930年代のドイツ空軍とその思想
ベルサイユ体制からの脱却を図ったドイツ第3帝国はハインケルHe51およびその後継としてアラドAr68という2種類の複葉戦闘機を採用した。
再軍備を急ぐドイツとしては特筆すべき性能は持たない平凡な機体であるが、搭乗員・整備要員・部隊の大量育成という点では冒険の無い信頼性のある技術に基づいた機体というのは多いに役にたったのであろう。

ドイツ空軍は再軍備宣言前の1934年には迎撃・制空任務を行う次期主力戦闘機の競争試作が行われており、また長距離護衛・対地支援任務を行う駆逐機の開発指示が出されている。
国土・自国の防空という戦略爆撃やそれに対する防空という発想はドゥーチェや石原莞爾など、一部の戦略思想家の間では考えられてはいたが、再軍備を急ぐドイツ空軍ではそこまでの戦略を考える余力はなかったであろう。
戦線上空の制空を行う迎撃的な性格の強い主力戦闘機と、味方爆撃機に先んじて敵上空に侵入し、迎え撃つ敵戦闘機を“駆逐”する駆逐機の二本立てで戦闘機の柱を考えていた。
主力戦闘機はできるだけ強力なエンジンを使ってできるだけ軽く小さな機体を作ることで高速性・加速力・上昇/降下力が優れた戦闘機とする。
駆逐機は重火力を持った長距離を飛べる高速の飛行機を実現するためにエンジンを双発とする。
後に“駆逐機”という構想自体が失敗で、双発機では戦闘機としての機動力(旋回性能という意味ではない)が発揮できないということになるが、1935年当時の常識ではごく当然な発想である。
ドイツ空軍は前者にBf109を、後者にBf110を採用するものとし、開発が始まった。

1936年、スペインにおいて内乱が勃発し、第3帝国は義勇軍として内戦に干渉する。
この時の主力戦闘機はハインケルHe51とアラドAr68であったが、平凡な性能の両機を主力としたコンドル軍団(ドイツ空軍義勇軍)は共和政府軍側のソ連製複葉戦闘機I-15に対し苦戦を強いられ、最新鋭の単葉戦闘機I-16に対しては歯が立たなかった。
ドイツはBf109B型をスペインに送る。またロッテという2機一組の編隊が連携する一撃離脱戦術でこれに対抗。Bf109の開発コンセプトはこの戦術に適したものであった。
1937年にBf109Bは空軍に正式採用される。

I-16、Bf109Bのスペインでの戦いを経て、ヨーロッパでは、これからの戦闘機には500km/h以上の速度と、12.7mm機銃以上の機銃、そして「突っ込みの利く」重戦闘機が主力になるという認識が広まる。
Bf109Bもエンジンの出力向上、火力強化などC型、D型と改良が加えられて、1939年にE型が登場する。これを主力としてドイツは第二次世界大戦に突入するのである。

メッサーシュミットBf109B-1(1937年)
スペインに展開したドイツ空軍義勇軍、コンドル軍団の機体。ダイムラーベンツDB601シリーズエンジン搭載はまだ先の話で、スツーカにも使われているユンカースJumo210シリーズを搭載しているのが機首のラジエータ形状からも察することができるであろう。出力は685馬力で最大速度は470km/h。武装は7.92mm機銃×2。

メッサーシュミットBf109D-1
1939年夏の写真。9月のポーランド戦目前の時期であるが、全てを一気に新型に更新できるわけではなく、まだまだ多数のJumo210搭載型が第一線に配置されていた。
主力戦闘機 メッサーシュミットBf109Eシリーズ
1939年、Bf109はようやく1000馬力級のエンジンを手にすることになる。
DB601シリーズを搭載した大戦前半の主力となるBf109Eシリーズの登場である。
第二次世界大戦は1000馬力級戦闘機用航空機エンジンを開発できた国の航空機開発競争という側面があるのだが、Bf109Eシリーズの登場でドイツはその土俵に上がったといえる。
Dシリーズまでは量産試作型と言っても良いであろう。

全金属製・単葉・引き込み脚、近代戦闘機としての条件を備えたBf109のコンセプトは、“小型・軽量の機体に可能な限り高出力のエンジンを搭載する”。
このコンセプトが加速力と垂直方向の機動力に優れた高速戦闘機Bf109を生み出した。

小型・軽量の機体に高出力エンジン。これはプロペラの回転により常に強いトルクが機体にかかるということを意味する。
高速性を高めるための高い翼面荷重(乱暴な言い方をすると主翼の面積が少ない)。これは離着陸の速度が高いということを意味する。
主脚が機体中央線側を支点に左右に広がり格納される形状ということもあり、離着陸時の事故が多い機体ではあったが、優れた操縦者にとってこれらの弱点は逆に切れ味の鋭さという長所となった。

この機体の特性に慣れ、一撃離脱の戦術に熟練した優れたパイロットたちは、1939年ポーランドで、1940年フランスで、そしてイギリス上空で、お互いの空戦技を競い、スーパーエースとなっていくのである。

この機体で珍しい体験をしたパイロットを一人、ここで取り上げよう。
ハンス・フィリップ。剣付柏葉騎士鉄十字章を受賞している敵機206機撃墜のエース。
1943年10月8日戦死。最終階級中佐。
彼はもともと急降下爆撃隊に配属されていたが1938年7月に戦闘機に転科。
ハンス・フィリップ少尉は1939年ポーランド戦で初撃墜を記録。
1940年フランス戦でエース(5機以上撃墜の者に与えられる称号)となる。8月下旬、英本土航空決戦の最中、中尉に進級。JG54(第54戦闘航空団)第4中隊長に任じられる。
1940年10月、20機撃墜を達成しRK(騎士鉄十字章)を受賞する。
この時彼が使用していた機体はBf109E-3である。
1941年春、ドイツ軍はバルカン半島に侵攻する。
珍しい体験はこの地で起こる。
彼は戦前ユーゴスラビアに輸出されたBf109Eと遭遇。同一機種による空戦という珍しい事態が起きた。
しかも彼はこの戦闘で2機のBf109Eを撃墜するのである。
敵にも使用されるBf109Eの優秀性、その優秀な機体をも撃墜する彼の技量が感じられるエピソードだ。
その後のハンス・フィリップは東部戦線で戦う。戦死までの略歴は以下のとおり。
1941年8月、62機撃墜時に柏葉騎士鉄十字章。
1942年2月、大尉に進級。JG54第1飛行隊司令。
1942年3月、82機撃墜時に剣付柏葉騎士鉄十字章。同月100機撃墜達成。
1943年1月、Fw190A-4に機種改編。150機撃墜達成。
1943年3月、200機撃墜達成(ヘルマン・グラーフに続き2番目)。
1943年4月、少佐に進級。JG1(第1戦闘航空団)航空団司令。本土防空任務に付く。
1943年10月、米陸軍戦爆連合の迎撃に出撃。B-17を撃墜直後P-47に撃墜される。享年26歳。
メッサーシュミットBf109E-7/B
DB601シリーズエンジン搭載によりラジエータ形状が変わり、機首部分がすっきりした形状に変化していることがよくわかる。プロペラも2翅から3翅となる

ハンス・フィリップ
1917年3月17日ザクセン州マイセン生まれ。
1943年10月8日ノルトホルン上空で戦死。
公認撃墜機数206機。剣付柏葉騎士鉄十字章。
駆逐機 メッサーシュミットBf110Cシリーズ
より高く飛行するにも、より速く飛行するにも、より強力な武装をするにもエンジンパワーは必要不可欠である。1930年代は各国が双発戦闘機を競って開発した。
ドイツ空軍の回答がBf110である。
1934年から開発がスタートしたメッサーシュミットBf110は、Bf109同様、コンパクトな機体に強力なエンジンという設計思想が貫かれている。
初期に生産されたBf110B型はJumo210系列のエンジンを搭載。これはBf109と同様、出力不足で本格的デビューとなるのはDB601シリーズを搭載したCシリーズからである。

敵単発単座戦闘機の脅威がそれほどでもなかった1939年のポーランド戦や1940年のノルウェー戦、フランス戦くらいまでは駆逐機としての活躍ができた。
しかしイギリス本土上空決戦になると、イギリスの単発単座戦闘機、ハリケーンやスピットファイアなどが相手となり、対戦闘機戦闘というのは苦しくなった。
駆逐機というのは航空戦を二次元的に考えた場合の机上の空論であることがあきらかになってきたのだ。
しかし双発機というのは単発戦闘機のような鋭い機動はできないものの、出力に余裕があるためにさまざまな用途に転用できる汎用性があった。
多くは爆弾を搭載して戦闘爆撃機としての運用をされる。
航続距離と高速性を生かして偵察機として運用されたりもする。
強力な火力は分厚い防御を誇る爆撃機に対して有効で、迎撃任務にも運用される。
後には余力を生かしてレーダーを搭載し、夜間戦闘機としても運用される。
Cシリーズが駆逐機としては使えないとわかっても、B110はD・E・F・G・Hシリーズと発展していくのである。

メッサーシュミットBf110C-5
C-5は機種下側の機銃をはずし、航空カメラを搭載した偵察機型である。
この機体はイギリス本土偵察中に迎撃を受け不時着して捕獲された機体。

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最終更新日:2001年11月15日